フデの日記帳

youtube大好き!筆跡鑑定人、筆跡アドバイザーもやってます。  なんてことのない日常生活や思ったこと、感じたことをそのままつぶやきます。 youtubeチャンネルあります^^

2020年02月

思い込み1、自分は○○な人間だと思っている

ほとんどの人が「自分のことは自分が一番よく知っている」と思っているはずです。 だけど本当にそうでしょうか?  自分のことがわかっている人が多いのならば、 なぜ世の中にこんなにも人間関係の悩みでいっぱいなのでしょう?    心理学には「ジョハリの窓」というのがあります。 人間の心は「オープン」「盲点」「秘密」「未知」の4つの窓に分かれていて、 その中の「盲点の窓」が、悩み、苦しみのもとになるというのです。 盲点とは、うっかり見落としてしまう点、 指摘されて初めて気づく点を表現することに使われる言葉です。 私たちは、自分が思い描いている自分と、 人から見える自分のズレに気が付かないことが多く、 指摘されたとしても、すんなり受け入れられない場合も多々あります。 つまり「盲点の窓」とは、他人からは見えますが、 自分では見えないわからない箇所なのです。 そのズレ、「盲点の窓」がもとになって、人間関係にひびが入ってしまったり、 誤解を招いてしまったりして悩みや苦しみを作ってしまうことが多いのです。   「盲点の窓」はゼロにすることはできませんが、 私たちが自分自身に気づくことで領域が小さくなります。 そして、気づくためにはきっかけが必要です。 きっかけとなるものは何でもよいのですが、 潜在意識、深層心理が表れる「筆跡」がおすすめです。 筆記用具さえあればいつでもどこでもできる手軽さがあり、コストもかからないからです。   筆跡診断で例えてみます。 自分はおおらかな性格だと思い込んでいる人が、 いざ書いてみると文字の形はちょっと違った…という事はよくあることです。 PTA主催の筆跡の講座であったことですが、 自分はボス的存在と公言していた一見リーダータイプのお母さんの話です。 講座中に大きな声でチャチャを入れたり、 笑ったりしてほかのお母さんたちをいじっていたのですが、 彼女の文字は、①きゃしゃで小さく、加えて⑧下部に行くにつれて右方向にズレていたのです。 そのコンボは傷つきやすく、くよくよ気にするネガティブ思考の傾向のある特徴です。 (言葉は選びましたが)そのような面もお持ちですねと伝えた時、 周囲の人たちは顔を見合わせて「その通りだ」とうなずいていたのですが、 当の本人はとても意外そうな顔をしていたのです。   このお母さんのように「自分では気づかないが人からは良く見える」部分が、 悩みや人間関係においてトラブルのもととなることが多いのです。 そのお母さんにとって、その指摘はあまり気分のいいものではなかったと思います。 「繊細でくよくよ…」というワードから、 強い自分でありたいという理想の姿を否定されたように感じたのでしょう。 しかし、くよくよするからといって弱いというのも思い込みにすぎません。 このお母さんが、自分のことを強く見せたいという気持ちが強く働いていた、 くよくよする部分を見せたくなかった、自分のこのような一面に気づくことができたなら、 もっと楽な自分らしい生き方になるはずです。   苦笑いにはなっていましたが、 「私、そうなの?」と、周りのお母さんたちに聞いていたのが印象的でした。 このように筆跡は、自分の思い込みを発見でき、 違和感を見つめることのできる非常に便利なツールなのです。 自分ではわからない盲点や、思い込みを発見することは簡単ではありません。 だけど、きっかけがあれば、ぐんと楽に見つけることができるのです。 そのきっかけは、私たちの回りにある、心理学を基礎にしたエニアグラムなどの性格診断、 カラーやアロマ、あるいは占いなどの自分発見ツール、なんでもいいのです。 私は筆跡アドバイザーですので、ここでは「筆跡」を取り上げています。 要は、なにもきっかけがない状態で、 相手の性格の盲点や思い込みを指摘したとしても反発を買うだけでしょう。 しかし、前項のお母さんの様に、「文字」をきっかけとして気づかせてあげると、 すんなりと受け入れてくれるものです。

森友問題に再び立花さんが火をつけた

3年ほど前から政界を揺るがせ、世間を騒がせてきた森本学園問題 火種が次から次へと飛び火していたのですが、無理やり鎮火させられそうになっています そんな中「Youtuber小学校」を建設するということで、立花さんが再びこの問題に火をつけました 本日、籠池夫妻の裁判の判決日ということですが、 本人は会見で判決日の延期を訴えています 検索すると、安倍夫人付きの経済省職員にあてた小学校敷地についての書簡がありました (2年前の検索、現在は出てきません) 画像元が籠池氏ご本人のブログなどではないので、 そのまま掲載することはできませんが、 籠池氏の文字を再現してみましたので、 彼の人物像を取り上げてみたいと思います ご本人の文字と比べるとずいぶんとタッチが変化してしまいました… が、まあ、どのような特徴なのかがはっきりとわかればいいと思います   ややクセ字ですが、達筆の部類ではないでしょうか 頭の回転が良く、野心家、個性的なリーダー気質の持ち主、というのが見て取れます 間違っても朴訥で誠実な人物像とはかけ離れているのですが、大悪党とまではいかない、 よくも悪くも人間味あふれる人物像が文字から浮かびあがります 思うに、国会での証人喚問のイメージ通りの文字です (以下、図表の筆跡特徴の数字と性格特徴が対応しています) 「子供の愛国心を育てる」といった精神性にこだわる面は縦長文字が表しているのですが、 ⑦ハネが弱く実行力に乏しい。また、①頭の回転が速くお調子者、⑤弁がたち、 ②③言動が臨機応変なため「調子が良い」面が出てしまうのでしょう また⑧⑩自分流に文字を変形させる「異能者」型の文字は、独特な分野での才能があることを表しています ⑨自分のこだわりや野心を持ってはいるのですが、「待つことが苦手で早く答えが欲しい」ため、 コツコツ努力が苦手なタイプといえそうです。ウサギと亀で言えば、ウサギタイプ 抜け目なさそうに見えて、④詰めが甘かったりするようです つまり、機敏に情報を使いこなす能力を持っていますが、 計算高い面から自分で動かず周囲を動かす面があるのでしょう 美味しい話に引っかかりやすい山師タイプともいえます しかし、憎めない人間性の持ち主でもあります 立花さんとは親和性高そうですが、文字を見る限りでは立花さんのほうが俗物的といえそうです 籠池氏が、自分の理念を実現させるために、美味しい話に飛びつかず、 他人を当てにしない堅実なコツコツ型であったのなら、籠池氏の持つ、 発想力やアイデアを生かした何かが実現していたかもしれません ともあれ、酒井弁護士の運命やいかに? いろいろな意味で、今回の判決内容は気になるところです

「人それぞれ、十人十色」

私たちは一体どれだけこの言葉を使って毎日を乗り切っているのでしょうか 「人それぞれ」なのだとわかってはいても、 どこかで、同じ人間なのだから、話せばわかる、 わからないのは相手の理解力の不足であって自己責任なのだ、と思ってしまいがちです では、その「理解力」は何がベースになっているか、なのですが ただ単純に脳みその善し悪しだけではないのではないでしょうか 人は置かれた環境によって、脳の発達に差が出てきます それは物質的ではなく、情操的なものが大きく関係してくると思うのです 豊かな情操教育を受ける環境で育った人もいれば、 情操教育的に劣悪な環境で育った人もいるでしょう 幼いころに与えられたもの、与えられなかったものによって ものの考え方にその人特有のクセが出てきます 同じ思考、行動を繰り返すことで この刺激でこれが出てくる、といったように、 パターンとして自分自身に刷り込まれてしまうのです それを自分のスタンダードとするだけではなく、 世間一般のスタンダードだと思い込んでしまうこともあるでしょう   そして、その思い込みに気づくことは難しく、 気づけない以上その世界から抜け出すことは不可能です 周りの人を傷つけるばかりではなく、 自分自身をも深く傷つける行為となってしまいます   では、それに気づくためにはどうすればいいのでしょうか? それはとても簡単なことです 「今、自分は前進しているか」 これをチェックすればいいのです 前に進むためには過去を手放すことが必要です つまり、昨日と同じことをしていては昨日と同じ今日、その繰り返しで明日が来ます これは当たり前です だけど、昨日と違うことをしてみることで、 その分だけ昨日と違う今日、そして、明日がおとずれるのです これは「過去にこだわるか、それを手放すか」の選択です 同じ過去を共有することはあり得ません みな、頭の中の配線が違うのですから、同じものをインプットしても 違ったものが出てくるのはあたりまえです 中には全く違うものが出てくる人もいるでしょう それこそが人それぞれということなのでしょう それを理解したうえで、 自分は過去に生きるのか、未来の可能性にかけるのかを 選択すればいいのです 前に進んでいないなと感じたら、 それは、みずから過去にこだわって生きる道を選んでいるわけです   それでは、こだわり少なく切り替え上手な人になる文字のご紹介です   まず改行があるかどうかです 改行は行動を切り替えることです 逆に改行がなく、一行書きの人は一途と言えます それに、文字の要素が加わることでその性格は強まったり弱まったりします ですから、改行ありの書き方に、①②③の要素が加われば加わるほど、 物事にこだわらずに進んでいけるタイプで、 逆に、改行なしの書き方に、④⑤⑥の要素が加われば加わるほど、 一つ一つの物事にけりをつけなければ進めないタイプという事ができるでしょう

本やセミナーではキャパは広がらない

自分のキャパを広げたい! そう思う人はたくさんいるでしょう そして、本を読んだり、セミナーやワークショップに参加したり… ただ、それだけでは何となくわかったような気になるだけで キャパを広げることはできないのです   自分の経験上で言えば、それは仕事だったのですが 自分の機能的な限界に不安を感じながら、 全力を出し切らなければならないような修羅場をくぐり抜けて、 初めてほんの少しだけキャパが広がった実感がありました   何度も触れていますが、人はみなそれぞれ違うように、 持って生まれた能力だってそれぞれ違います キャパの大きさだって元々違うのです もし、キャパを広げたければ、 自分ができるかどうかのギリギリの状況を乗り切ってみるのです   それは筋肉をつけることと似ています 筋肉繊維をこわすために筋肉に負荷をかけ、 筋肉繊維が修復するときに、筋肉がつくというのです   このように、キャパに限らず物事を大きくしていくためには まず、外枠をこわさなければなりません。 しかし、外枠すべてをきれいさっぱりこわす、という事にはならないのです まず、どこか一か所で良いのでひびをつけ、そこを突破口にするのです ひびの入った場所を責めその部分をこわします そして、そこの部分から少しづつ広げていくのです 当然そこは傷口なので痛みも伴います   人は限界を突破して初めて自分のキャパを広げることができます 自分の限界は、家事や人間関係、育児を通しても知ることはできますが そんな場面では自分を突きつけられそうになると 無意識に逃げちゃうのでなかなか難しいです つまり、妥協を許されない厳しい場面で 自分に向き合うことが必要になってくるわけで、 その条件を満たしているのが逃げることのできない「仕事」という事になるのでしょう   キャパを広げる文字として、 大きな文字と小さな文字が混ざっている、メリハリのある文字を書く人がいます   このような文字を書く人は、変化が好きなのです 淡々と同じことの繰り返しが嫌なので、 文字の大きさにも変化をつけてしまうのです 当然、変化を呼び、波乱を呼び、 それを乗り越えることに充実感を感じるのです つまり、経験値が高くなり、キャパも広がるわけです

はだしのゲン閉架問題

少し古い話になりますが、 2013年に“はだしのゲン”の閉架問題というのがありました。 “はだしのゲン”とは、1973年に週刊少年ジャンプに連載された 原爆投下時の広島を舞台にした戦争漫画です。 そんな“はだしのゲン”を、市内の全小中学校図書室から児童に貸し出さないよう閉架扱いに するよう島根県松江市の教育委員会が要請したのです。 理由は、過激、残虐な描写が児童生徒には不適切というものです その後、東京や神奈川など、一部の地方自治体でも同じ動きがありました この問題はマスコミにも大きく取り上げられ、世論、日本図書館協会などを中心に、 「表現、図書館の自由」の観点から大きな論議が起こった結果、 松江市は閲覧制限が撤回され、 ほかの自治体もそれに習う形で全国的な論議もおさまり、 この問題は落ち着くところに落ち着いたことになります

イデオロギーの問題にして蓋をしない

この件と絡めて少し書きたいと思います 私は、原作者中沢啓氏の経験と想いを 次の世代に伝えていかなければならないと思うのです この漫画を反戦、反軍国主義のイデオロギー押し付けと批判する前に 実体験していないものが頭でっかちの思想で横槍を入れるのはどうかと思うのです “戦争は悲惨”それは当たり前、 だからといって残酷なシーンを取り払ったところで いったい何の意味があるのでしょうか 悲惨で残酷なシーンは確かに子供達の心に強烈な感情を植えつけるかもしれません でも、当時の子供達にとっては “悲惨で残酷”な世界がまぎれもない現実世界だったのです 人間の感情には必ず+と-があって、 +だけを見て-を見ないことは不自然なことでしょう ありのままの人間の感情や言動を直視して、 人間は皆一様に反社会的な欲求だって持っていることを自覚させ、 そこから“その感情をどうするか”という話に持っていくことこそが 家庭で出来る教育ではないでしょうか   “経験を事実として伝えること” “人間のやってきたこと” “人間はこんなことまでやってしまう” このように、人間が追い込まれたときにやらかしてしまうこと、 それを直視し、受け止め、話し合うことこそが教育ではないでしょうか “世界を平和に” そんなことは誰でもいえるのです そうではなくて、 人間が限界に追い込まれたとき、 単なる二元論で納めることなく、そのことについて想像力を膨らませ、 自分だったらどうするかを話し合う、 それが、あえて悲惨で残酷な描写をありのままに伝えた 作者中沢氏の意図なのではないでしょうか   それは“いじめ問題”にも共通することだと思うのです それをいいとか悪いとかで裁く事にいったいどんな意味があるのでしょうか 大切なのは自分の限界時に、 どういった思考でどのような行動が出来る人間になりたいかを 平時から話し合っておくことこそが大切だと思います もちろん、人間だから自分が一番かわいいし、 自分よりも他人を優先することが単純にいいとは思えません 良い人間、出来た人間と思われたくていい子ぶっていたとしても、 実際、喰うか喰われるかの状況におちいったとき 果たして他人を優先することができるかどうかはわからないし できなかったから悪いという事でもないと思います

この国の今

そんなことを考えながら、この国の今を見つめてみました 果たして、国を動かしている政治家は “理想とする人間像”を持っているのかどうかはなはだ疑問です 彼らは“この国をああしたい、こうしたい”と理想論ばかりいいます しかし、そう言っている本人が、物事の優先順位や本質を見極め、 人々に信頼される行動が取れている人間にはとうてい見えません 彼らを含めた一部の人たちさえよければ良いといった 恥知らずな行動を平気で取っているようにしか見えないのです 経済活動は錦の御旗ではあるまいし、 長いものに巻かれ何が何でもお金儲けに突っ走るこの国のあり方を見ていると とても不安になってしまうのです   最近パッとしなかったN国党ですが、浜田参議院議員の質問は、 自分の心に明るい光が差し込んだようでした N国党は、課題が多く支持政党ではないのですが、 浜田議員を見て久しぶりに全うな政治家が出てきたと思いました また、ひょんなことから政治団体を立ち上げた えらてんさんも未知数ですが、ぜひ頑張ってもらって この国を少しでも変えて欲しい、 そんな期待を持っている自分に気が付きました

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